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JO

8 月18 日/日曜日/ 23 時

初夏、義父が倒れた。血液の病で放っておくと2ヶ月もたないとのこと。そもそも屈強な義父で、彼を知る誰もが病気とは無縁だと思い込んでいたこともあり、皆混乱を隠しきれなかった。義父は50 歳をすぎた頃から、俺が倒れたらこの文書を院長に渡してくれ、と、嘆願書を作成するほど延命を拒んでいた。もちろん、それが残された家族への思いやりだということは、義父の日頃の行動から十分すぎるくらい皆に伝わっていた。案の定、可能性があるからと説明する担当医に、治療を拒絶し続けた。そして息も絶え絶えになった入院3 日目の夕方、状況が変わった。担当医から改めて治療説明を受けている時、同席していた義母が、急に立ち上がり強い語気で「頑張って」とひとこと。義父は、浅い呼吸でしばらくうつむき、「1 回だけやるか」、と抗がん剤治療を受け入れた。そして昨日、退院した。ふたまわり小さくなった義父が言う。「ありがとう、ありがとう」「甘えてごめん」。
死の淵を彷徨ってからも、まだ気を使う。そんな彼に会うため、明日もたくさんの人が家にやってくる。

“カザミドリ一回は飛んでみろ
         追い風になるまで”

曲:風の向きが変わって
MONO NO AWARE

 9 月7 日/土曜日/ 13 時

ミレニアム騒ぎから10 年ほど経った師走、私は都内某所で町工場を探していた。水路を渡った先に明朝体の看板。ここだ。引き戸を動かすと、機械のそばに鋭い目つきの大男。「あ、電話をくれた方ね」「うまいコーヒー飲む?」物腰は軽快で爽快。仕事の話をすると、懇切丁寧に機械の説明までしてくださった。「俺のテンキンは東京イチ」という言葉をもらって工場を出た時には、何もしていない私なのに、心は強気になっていた。
その日からのお付き合い。いつも期待以上の仕事をしてくださった。それから6 年後の9 月、相談したくてかけた電話で訃報を聞く。早々に伺って、手を合わせた。「テンキンはうちが日本初です。初代が明治に始めて夫は3 代目でした」「多くの職人さんが、うちから独立していきましたよ」と、奥さん。そんな話、聞いてないよ!!と動揺しつつ「俺が知らない箔屋はモグリだ」と彼が話していたことを思い出し、涙を堪えた。そして今日も奥さんが入れてくれたドリップコーヒーを、一気に飲み干した。
9 月にこの町に来ると思い出す。職人が好き。やっぱり、職人が好き。

“いつかどこかで
    この唄を聞いてくれるといい”

曲:センチメンタル
THE TLAUTS

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