産業医 河下太志さん
江森:河下先生には、昨年より神奈川県印刷工業組合の産業医ということで、組合企業の従業員の健康、主にメンタルヘルスについて企業巡回、従業員との面談をお願いしていますが、印刷業はじめ中小企業における最近のメンタルヘルスの状況はいかがでしょうか。
河下:大企業では一般的に0.5%〜1.5%ぐらいの範囲でメンタル不調による長期離脱者がいると言われています。さらに会社には来ているけれども、ちょっと調子が悪いという、いわゆる長期離脱予備軍がその5倍ぐらいと言われていますので、だいたい20人に1人ぐらいは、何らかのメンタル不調を訴えているということになります。中小企業は元々社員数が少ないので、どこの会社にもメンタル不調者がいて困っているというわけではありませんが、100名ぐらいの会社だと5人ぐらいは、ひょっとしたらこのままだと病気になって何ヶ月も働けなくなっちゃうかなと感じる人はいますね。大企業も中小企業もメンタル不調が起こる割合にはさほど違いはないと思います。
江森:統計上メンタル不調による休業者は増加の一途であるときいていますが、一部では昔は病気とされなかった症状に病名がついたからとか、メンタル不調も病気と認めましょうという社会的な風潮があるから増えたように見えるだけで、実は実数は昔とあまり変わらないんじゃないかという意見もあるようですが。
河下:確かに以前は、世間で病気として認知されたが故に、本人も自分は病気なんだと意識するようなケースが多かったと思いますが、ここ7、8年ぐらいは明らかに増えていますね。企業だけでなく社会そのものに適応できない人が増えていると実感しています。
江森:何か原因はあるのでしょうか。もっとも特定は難しいと思いますが…。
河下:そうですね、いろいろあると思いますが、社会全体で子供を教育しなくなったということはあると思いますね。僕なんて田舎モンだから、近所のおじさんに怒鳴られるなんて良くあることでしたけど、いま全然ないですもんね。
江森:それはありますね。一方で親が子供に干渉しすぎるというか、コントロールしようとしすぎるという傾向もあると思います。
河下:親離れできない子供と、子離れできない親が共依存の関係になるような親子関係というのが増えていますからね。そもそも親が自立していない。子供の存在をもって自分の存在意義を感じているような親が増えています。だから子供が自分の思ったような進路に進まないというようなことが起こると、自分の存在意義を見失ってしまうんですね。そうやって小さい時から子供の成功=親の自己実現になっているので、子供が会社に入って営業に配属され、思うように成績があがらないと、親が人事に電話をかけてウチの子他の部署に異動させてくださいなんていう話もあるぐらいです。
江森:それホントの話ですか?(笑)
河下:実話です(笑)。子供が営業成績全国トップになって表彰されるということが、お母さんにとっての成功にもなってしまっているんですね。
江森:2040年には生産年齢人口がいまの4分の3になってしまうという予測もあるように、労働人口がどんどん少なくなって、特に中小企業では労働力の確保が難しくなっていきますよね。しかし一方で社会にうまく適応できないような人が増えている…。どうしたもんですかね?
河下:僕の感覚では、たとえ一度病んでしまって離脱した人でも、問題を局限化することができれば3割の人は良くなるんですよ。しかもこの3割の人が問題を克服したことで、飛躍的に成長するということが起こっています。それには、やはり自分のことを見つめ直す勇気と素直さがあって、論理的に自己分析できるということが前提になりますね。
江森:何かひとつのことがうまくいかず挫折をしたときに、一旦これまでの自分を白紙に戻して、もう一度人生の目標なり自分の生き方なりを再構築していく必要があると思うのですが、それができるかできないかということですね。
河下:そうです。そこで鍵になるのが自己肯定感です。本当は「我々は生まれてきたときから単なる人である」という認識でいいんだと思うんですよ。でも、いい会社に入って出世しないといけないとか、子供は有名大学に入れなければいけないとか、さもなくば人に非ず。みたいなね(笑)。バカげた話のようですが、本気でそう思ってる人多いですよ。
ところで、江森さんも野球部ですが、体育会系の人ってストレス耐性強いと思います?
江森:自分では強いと思ってますが。
河下:それが意外と弱い人多いんですよ。今は体罰はなくなりましたけど、逆に言葉の暴力が結構すごいらしいんですよ。監督とかコーチから徹底的に否定されるわけですね。また先ほど言ったように親は子供と一体化してますから、「監督はああ言ってるけど、あなたは良く頑張ってるよ」と言ってやればいいものを、「あんなこと言われないようにしっかりやりなさい!」とか言っちゃうから、家でも認めてもらえず、自己肯定感がまったく育たないまま社会に出てきちゃうというケースが増えているんですね。
江森:でも、全員がレギュラーになれるわけではないし、自己肯定感といってもなかなか難しいような気がします。
河下:そうですね。だから自分はそこそこ頑張ったんだけれども、そんなに才能もないしプロにもなれないということがわかった、ということでいいんだと思うんですよ。その上で、レギュラーの人たちのために自分には何ができるかを考えて、「よし、オレは応援で大きな声を出すんだ」というような切り替えができたら球児としては申し分ないですよね。
江森:自己肯定感というのはどのようにして育つものなのでしょうか。
河下:3歳頃までに、自分がどんなことをしたとしても、お母さんがぎゅっと抱きしめて許してくれたという経験を持っているかどうかで、自己肯定感が育つかどうかが決まるといわれています。いろいろ厳しいことはあるけど、最後に自分を受け入れてくれる人がいるということを、本能的に知っているかどうかは大きいですね。そういう土台がないと、自分がこれで良いのかどうかを常に周りとの比較の中で確認するしかない。試験を受けるのが好きな人にはその傾向があります。どう見ても営業向きでない人が営業をやりたがったりするのも、営業は成績が数字で出てわかりやすいからである場合が多いのです。
江森:そのような社会状況の中で50名以上の会社でメンタルチェックが義務化されました。私が専門家の皆さんから話を聞く限り、それほど有効な策とも思えないのですが、いかがでしょうか。
河下:いま現在でも、きちんと社員教育をして、メンタル不調の人にはそれなりの対応をしている企業はたくさんあるわけです。一方、そういうことに無関心な企業は、メンタルチェックが義務化されたところで、何かが変わるということはあまり期待できないでしょうね。しかし厚労省もそこまでは当然考えていて、例えば立入検査に入るときのきっかけにしたいというようなことではないかと思います。日本におけるメンタルヘルスの問題を解決するには、企業や社会全体でいかに個人に対する教育をきちんとやっていくかということに尽きると思いますが、今回の政策ではそこまでは辿り着かないでしょうね。せいぜい調子の悪い人を早く病院に行かせなさいという程度で、それでは問題の解決にはなりません。
江森:メンタル対策を進めていく上では、「働き方」も大切な要素になると思います。
河下:ある自治体で労働時間マネジメントをやろうということになって、最初は人事が頭ごなしに労働時間の規制を始めたんです。そうしたら過少申告とかクレームとかが多発して頓挫してしまいました。そこでもう一度組み立て直そうということになり、そもそもなんでやるんだっけ?というところの背景づくりからやり直したのです。その結果「私たちが私たちらしい働き方をするための労働時間マネジメント」という目的が定まり、ノー残業デーみたいなことを頭ごなしに決めるのはやめましょう、その代わり「MYノー残業デー」を作って、それぞれのライフスタイルに合わせた運用にしようということになったのです。
江森:日本もモノづくりの時代じゃなくなってくると、いかに効率よく仕事をするかということよりも、人と人がうまく仕事をして、みんなが気分良く働くことができるかということで企業の優劣が決まってくるような気がします。
河下:現在厚労省で産業医のあり方を再検討しています。これまで製造業を中心とした法規制であったところを、産業構造の変化にあわせて法規制も見直そうという検討会です。もともと健康診断は結核予防から始まっていますが、すでに結核予防法という法律もなくなりましたし、レントゲンに結核予防の医学的根拠がないことも明らかになっています。これからはメンタルとか、社員教育とか自己肯定感の醸成のようなところに踏み込んでくれればと思います。